什么是存有(什么是此在)

存在(Sein)同存在者(das Seiende)有别在是最高的普遍性,一切在者都存在但在不是族类上的普遍性,因为族类是用以区分在者的,所以,从族类上说,无所不包的普遍性没有意义在又是不可定义的,无论我们用什么东西来定义在,都会把在弄成了在者,最后,在是不言自明的:存在就是存在,无法证明亦无须证明但康德曾说:哲学家的事业正在追究所谓自明的东西,今天小编就来说说关于什么是存有?下面更多详细答案一起来看看吧!

什么是存有(什么是此在)

什么是存有

存在(Sein)同存在者(das Seiende)有别。在是最高的普遍性,一切在者都存在。但在不是族类上的普遍性,因为族类是用以区分在者的,所以,从族类上说,无所不包的普遍性没有意义。在又是不可定义的,无论我们用什么东西来定义在,都会把在弄成了在者,最后,在是不言自明的:存在就是存在,无法证明亦无须证明。但康德曾说:哲学家的事业正在追究所谓自明的东西。

存在は存在者とは異なる。在は最高の普遍性であり、すべて在者は存在している。しかし在は族類上の普遍性ではなく、族類は在者を区別するために使われているので、族類から言うと、何もかも含む普遍性は意味がない。また在は定義できないものだ。私たちは何を使って在を定義しても、在を在者にしてしまって、最後に、在は言うまでもなく、存在は存在で、証明できないが証明する必要もない。しかし、カントは哲学者の事業は自明というものを追及していると言う。

但如何追究在呢:在不是一种特殊的在者,不是在者的抽象共性(族类上的普遍性),也不是在者的一部分或属性。所以定义法,归纳法,演绎法,都不中用。我们简直不可能离开在者谈在,那就得找出这样一种在者来:对它来说,存在本身是首要的,至于作为什么东西(即作为何种在者)来存在则是次要的。人,就是这种在者。人不同于其它在者,因为人在他的存在中同存在本身打交道。只要人在着,他就对他的在有所作为,无论有意还是无意;他就对在有所领悟,无论明确还是含混。如果人同他的在不发生关系,人就不在了。唯因人对自己的在有所领悟,有所作为,人才在,人才“是”人。人的这种在称为生存(Existenz)。过问自己的在是人的特点,追究在就必须从人着手。

しかしどのように在を追及するのか:在は一種の特殊な在者ではなく、在者の抽象的な共性(族類上の普遍性)ではなく、在者の一部や属性でもない。したがって、定義法、要約法、演繹法は、いずれも役に立たない。私たちは、在者を離れて在を語ることができない。ではこんな在者を見つけなければならない。それは、それにとって、存在自体が最も重要であり、何として(すなわち何という在者として)存在するのかというと、二の次なのだ。人は、このような在者である。人は他の在者と違って、人は彼の存在の中に存在自身と付き合っている。人がいる限り、彼は彼の在に対して、意図的にしても無意識にしても、何かをなす。明確にしても曖昧にしても、在に対して何かを悟る。もし人が彼の在と関わらなければ、人はいなくなる。ただ人が自分の在に対して何かを悟って、何かをなしてから、人がいて、人“は”人である。人のこのような在は生存と呼ばれる。自分の在に聞くのは人の特徴であり、在を追及するには人からスタートしなければならない。

如何了解人?当然要就人的基本情况来了解人。人的基本情况就是——人生在世(In-der-Welt-Sein)。人同世界不能一刻分离,离开世界就谈不上人生。因此,人生在世指的就不是把一个独立于世界的人放进一个世界容器中去。人生在世指的是人同世界浑然一体的情状。在世就是烦忙着同形形色色的在者打交道。人消融到一团烦忙之中,寓于他所烦忙的在者,随所遇而安身,安身于“外”就是住在自己的家。人并不在他所烦忙的事情之外生存,人就是他所从事的事业。

どのように人を理解するか?もちろん人の基本的な事情によって、人を知る。人間の基本的な事情は、人は世に生きていること。人は世界と一刻も離れてはいけない。世界を離れたら人生は言えない。だから、人は世に生きているということは、世界に独立した人を世界という容器に入れるのではない。人は世に生きているということは、人間と世界が一体となっている状態を指す。世に生きているということは、いろいろな人との付き合いに忙しいことだ。人は一団の煩雑に溶けて、彼の煩わしい在者に寄与して、至るところで身を置き、“外”に身を置くのは自分の家に住むということである。人は彼の煩わしい事以外に生きているのではなく、人は彼の従事した事業である。

传统认识论独独见不到这种浑然天成的生存状态,结果提出了“主体如何能认识客体”这样的蠢问题来。这个问题暗中仍然先行设定了一个可以脱离世界而独存的主体。然而,存在的天然境界无分主客。首先是活动。活动中就有所体察。待把所体察的东西当作静观认识的对象来作一番分析归纳,这才谈得上各有族类、界限分明的物体。人成了一个物体,人外面还有种种物体。于是,生存被击碎成主体、客体等残肢断片,而认识却无能把它们重组为生命。结果反来问“主体能否超越自身去认识客体”,“主客体是否能够沟通”,甚至“外部世界是否存在。”先就把存在(认识活动只是存在的方式之一)局限在一部分物体即主体中,存在自然达不到客体了。但由生而在世的人来提这些问题,这些问题就毫无意义。我们在烦忙活动中与之亲交的世界才是真的世界,知识所描绘的世界则是智性化了的世界残骸。人不在“主体”中,而在世界中,在他所从事的事情中,人于何处对自己的在有所作为,有所领悟,他就于何处实际生存。为了避免把人误解为一个主体物,宜把人称作“存在于此”,或“此在”(das Dasein)。

伝統的な認識論は、ちょうどこのような自然な生存状態が見えないが、結局「主体が客体をどう認識できるか」という愚かな問題が出てきた。この問題は、依然として裏で予め世界から離れて単独で存在することができる主体を設定している。しかし、存在する天然の境界には、主客の区別はない。まずは活動。活動中に何か体験している。体験しているものを静的認識の対象として分析してみて初めて、それぞれ類類があり、限界のはっきりしたものと言える。人は一つの物体になって、人の外にはいろいろなものがある。そこで、生存は主体や客体などの断片に打ち砕かれたが認識はそれらを再び生命に組み合わせることができない。その結果、「主体が自分自身を超えて客体を認識することができるか」「主客体がコミュニケーションできるか」、さらに「外部の世界が存在しているか」を問われた。まず存在(認識活動が存在する方式の1つだけ)を一部の物体つまり主体の中に限って、存在が自然に客体に及ばなくなる。しかし、世に生きている人によってこれらの問題を出すなら、意味がない。私たちは忙しい活動の中で親しく付き合っている世界こそ真の世界であり、知識によって描彼た世界は、知的化した世界の残骸である。人は「主体」の中にいなくて、世界にいて彼の従事したことの中にいる。人はどこで自分の在に対してことを為して、何かを悟って、彼はどこで実際に生存する。人を一つの主体物に誤解することを避けるために、人を「ここに存在する」、あるいは「此在」と言うべきである。

人作为此在不是孤立的主体,人溶浸于世界和他人此中。同样,他人也不是一个个孤立的主体。人都是此在。而就人溶浸于他人的情况来看,此在总是共同此在(Mitdasein)。在世总是共同在世。即使你避居林泉,总还是一种在世,你的在依旧由共同在世规定着。共同在世并非指很多孤立的主体物连陈并列,遗世独立也不是指无人在侧。共同在世提供了特立独行的背景和可能。大隐可隐金门;在很多人中独在说的是他人以冷漠的姿态共同在世。“在人群和喧嚣中随世沉浮,到处是不可共忧的、荣华的奴仆,这才是孤独!”(拜伦语)

人は此在として孤立の主体ではなく、人は世界と他人に融合してしまう。同様に、他人も一人一人の孤立した主体ではない。人はみんな此在である。人が他人に融合してしまうことについては、此在は常に共同で此在している。世にいることはいつも共同で世にいる。たとえあなたが世を避けて林泉に居住するとしても、一種の世にいることで、あなたの在は依然として共同で世にいることによって規定されている。共同で世にいることは、多くの孤立した主体物が立ち並んでいるのではなく、世を辞めて独立も誰も一人が傍にいないわけではない。共同で世にいることは、独立で行動する背景と可能性を提供している。大隠は金門に隠せる。多くの人の中で独在というのは他人が冷たい姿で共同で世にいることを言う。「人ごみと喧騒の中で世とともに沈んだり浮かび上がったり、至る所で憂いを共にすることができず、栄華の奴隷ばかりで、それこそが孤独だ!」(バイロン語)

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